カトリック小樽教会主任司祭 パク神父

9月のパク神父の言葉

2020年9月20日(年間第25主日)

今日の福音のみことばを本当に核心だけ簡単に申し上げますと、神様が今日の福音からキリストの弟子である私たちに警告したのです。

人になられた神様は先にユダヤ人たちに警告しました。それからすぐに弟子たちに警告したのです。

 つまり、神が与える救いはすべての人々に同じように与えられたものだから、先に呼ばれたからといって、絶対に偉そうにするな、ということです。つまり、高慢になるなということです。

 私たちは誰でも同じように神に召されました。 ここの祭壇の上にいる私も皆さんも同じように神に呼ばれたということです。

したがって、呼ばれた我々は皆、神の前で大切な存在だということです。 例えば、たとえ自分の生涯の最後に神の存在を知って、あの方のお呼びに応答した人でも、イエス·キリストの救いの恵みはみんな同じだということです。

 今日の福音で現れた「1日につき1デナリオンの約束」は、お金ではなく、神の恵みです。 神の恵みは、私たちが何かの報いを受けるのではなく、神様がただで私たちに与えてくれるのです。もう一度申し上げます。恵みは、神様がただで私たちに与えてくれるのです。

 救いは時間の問題ではなく、応答の問題です。 我々がいつ神に呼ばれたかではなく、今、現在、私がきちんと神のみことばを実践して生きるか、そうでないかということだと思います。

 実を結ぶ人に、すなわち、神のみことばを実践して生きる人に救いの恵みは確実に近づいて来ます。ですから、神様が呼んでくださった皆さん、今からでもキリストの福音にふさわしい生活を送るのではないでしょうか。

実は、今日は韓国教会の聖アンデレ キム•デゴン 司祭と聖パウロ チョン•ハサンと同僚殉教者たち(全員103位)の大祝日です。日本教会にも多くの殉教者たちがいますが、今日、現代の政治的な迫害がないこの時代に私たちが忘れてはいけない3つについて伝えようと思います。一番目、自分を捨てて自分の十字架を背負って生きていくこと、二番目、殉教者たちのように自分の命を捧げる覚悟で生きていくこと、三番目、未信者たちの前にイエス様を恥じないこと。今日、韓国教会の103位殉教者たちの大祝日に、皆さんにこれを是非伝えたかったのです。

2020年9月13日(年間第24主日)

  今日のみことばは赦しに関するみことばです。 

今日の福音のみことばの核心メッセージは、イエス様は私たちに限りなく赦しなさいとおっしゃいました。

 これについて例え話をおっしゃいましたが、内容の意味は次のようです。

  王は神です。 そして王に一万タラントンを借金している家来は私たちです。 私であり、皆さんです。 一万タラントンはユダヤ人たちとって非常に大きいお金です。 一万タラントンは現在日本の円だと、約18千万円ぐらいだそうです。 詳しくわかりませんが。その借金を帳消しにしてやったそうです。

 ここで借金は我々の罪です。つまり、神様は想像できないほど非常に多い私たちの罪を一度に全部赦してくださったという意味です。 ところが、その多くの借金を帳消しにされた家来が、自分に百デナリオンしか借金していない仲間の借金を帳消しにせず、全部返すまで牢に閉じ込めてしまいました。 これは想像をできないほど多くの我々の罪を神様が一度に全部赦してくださったにもかかわらず、我々は我々を傷つけた隣人の小さな罪を赦していないという意味です。 

  こうして、私たちは神様に私たちが犯した罪を全部赦されているのに、実際に私たちは私たち自身に罪を犯したわが兄弟姉妹たちの罪を赦していないとしたら、後日、神の前に呼び出された時、神様からおびただしい罰を受けることになるだろうということです。 

  だから兄弟姉妹の皆さん、私たちがただで無条件に赦された神の恵みを思い出し、私たちも私たちに罪を犯した私たちの兄弟姉妹の罪をただ無条件に赦すようにしなければならないのではないでしょうか。

  今日の第1朗読のシラ書のみことばが、今日の福音のみことばを補ってくれる、非常に大切なみことばだと思います。 それでですね。 今日第一朗読のみことばをお家に帰ったら一度書いて、覚えるようにやってみませんか。 とても貴重なみことばですから。 宿題です。^_^ 私も書いて覚えるように致します。

 

2020年9月6日(年間第23主日)

今日もやはり単刀直入的に核心だけ申し上げます。

今日の福音のみことばは結論から先に申し上げますと、一人の悔い改めのためには共同体の人々のみんなの努力が必要だということです。

 

 今日の福音のみことばの核心は、例えば、私が間違ったことが一つもないとしても私を傷つけたその人を自分が先に尋ねて行けということです。 なぜなら、他人を傷をつけたその人は正直自分が何を間違ったのか非常によく分かっています。ですが、いざ自分の体面や固執などによって、簡単に自分からゆるしを請うことができないからです。ですからこんな場合、過ちを犯していない人が先に尋ねて行ってゆるしてあげなさいとイエス様がおっしゃっているということです。

 

 イエス様が教えてくださったゆるしの教えは全部四つです。

1番目、傷ついた私が先に尋ねてゆるしてあげなさい。

2番目、それでもダメなら、一人か二人を連れて行ってそうしなさい。

3番目、それでもダメなら、教会の主任司祭に知らせなさい。

4番目、それでもダメなら、その人を徴税人か異邦人と同じように見なしなさい。

 ところで、4番目を誤解しないでほしいです。なぜかというと、「その人を徴税人か異邦人と同じように見なしなさい」ということは無視しろというのではありません。徴税人と異邦人はイエス様のお友達でした。これは、諦めないで二人か三人が一緒に集まってその人のために祈ってあげなさいということです。  

 

 これこそ律法が教えるまことの隣人愛だと第2朗読のみことばから使徒パウロはおっしゃいました。また、こうしなければ罪を犯したその人は自分の罪のゆえに死んでも、その人の血の責任をその人の共同体の手に求めるというのが第一朗読の預言者エゼキエルが警告したみことばです。

8月のパク神父の言葉

2020年8月30日(年間第22主日)

皆さん、皆さんは今日の第2朗読のみことばからどんなみことばが心に響きましたか。私は「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」ということが一番心に響きました。

  皆さん、そんな礼拝はどんな礼拝ですか。

  これについてイエス様は断固としておっしゃったと私は思います。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。 つまり、神に献げる礼拝の中に一番トップになるのは、まさに自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス・キリストに従うことです。

  もっと具体的に言えば、自己主張、自己欲望、プライド、自分の意志など、自分に関するすべてのことを捨て、神の計画にすべてのことを任せながら、今、現在、自分が経験している苦しみをイエス様のために忍耐できたら神の国へ行けるという意味です。

  もしそうしないで今日の福音から見えたペトロのようにすれば、私たちもイエス様に叱られるでしょう。

  ね、それ、分かりますよね?

  イエス様はペトロに当時イスラエルの人々が言う最もひどい悪口を言いました。それは人に「サタン」ということです。しかし、イエス様がペトロに「サタン」とおっしゃったのは人々のように自分の感情を我慢できないのではありません。あの方の怒りは正義な怒りです。

  もしペトロが日本人だったなら日本語でどんな悪口を聞いたでしょうか。ひょっとして日本人が言うことができる一番ひどい悪口を言ったかもしれません。それは言わなくても分かるはずです。これは余談です。

  皆さん、思い出しましたか。イエス様が神の国へ入って行くためにはどうすればいいかとおっしゃったことを。 まさに「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」ということを。 親の言葉をスポンジのようによく受け入れる子供のように私たちも神のみことばをスポンジのようによく受け入れるようにしなければならないのではないですか。

  今日の説教でした。しばらく黙想しましょう。

 

2020年8月23日(年間第21主日)

 今日の福音のみことばからイエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお聞きになりました。弟子たちは何も答えられずにいたのですが、いきなり使徒ペトロが一人で答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。すると、イエス様から二つのプレゼントをもらいました。

   一つ、新しい名前をもらいました。シモンという名前で呼ばれた彼にペトロという新しい名前をくださいました。教会の岩になれと。つまり、教会の礎になれという意味でペトロという名前をくださったのです。もう一つは、ペトロという名前によって人の罪を赦せる謝罪権をくださいました。

  このすべてのことイエス様が捕まる数日前に起きました。イエス様はご自分が捕まる前にご自分の後継者を立てるために弟子たちにお聞きになったのです。それで今日の我が教会はこのように使徒ペトロの伝統の上に立てられました。

  つまり、今のフランシスコ教皇様はまさにイエスキリストが直接選び、任命した使徒ペトロの後継者なのです。そしてイエス様から直接受け取った謝罪権は、ゆるしの秘跡を通して今まで続いてきているのです。がカトリック教会の正統性はこのようなものです。

  これは、キリストが直接立てた教会から今日の教会で行うすべての秘跡の中には全部イエスキリストが生きているということを証ししてくれます。だから、今、行なっているミサを含め、ゆるしの秘跡、洗礼の秘跡、堅信の秘跡、病者の秘跡、叙階の秘跡、結婚の秘跡の中にイエスキリストが生きているということです。

 今日、今、このミサに与る私たちにもイエス様はお聞きになるでしょう。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。それでは、皆さんはどうやって答えるつもりですか。皆さんは本当にイエス・キリストを、特にパンとぶどう酒としていらっしゃるイエス・キリストを本当に私の救い主として告白するつもりですか。もしそうだったら、イエス・キリストが行かれた十字架の受難と死の道を行べきだということです。神の国へ行く道は狭い道だからです。

2020年8月16日(年間第20主日)

  今日のみことばの核心メッセージをものすごく簡単に、そして単刀直入的に申し上げます。

特に今日の福音のみことばを中心に申し上げますと、次のようだと思います。

  今までの私たちの信仰生活は、すなわち、生温い信仰生活でした。今日の福音のみことばは私たちがもっと一生懸命イエス・キリストの弟子らしい生き方を生きて行くようにとおっしゃったと思います。つまり、熱心なキリスト者になれということです。今日の福音のカナンの女のようにイエス・キリストじゃなければ誰も私を救ってくれることができないという信仰を持ちなさいということです。そしてそのような信仰を持って切に救い主イエスキリストだけに頼れということです。

 世の中の人間全てがイエス・キリストに逆らっても、イエス・キリストの力によって、いや、もっと正確に言うと、あの方が十字架の犠牲になって救って下さるということです。それがまさに今日の第二朗読のみことばの核心メッセージと思います。

 ですから、皆さん、今日の第1朗読のみことばからお聞きになったように神様が私たちに教えてくださった教えを熱心に守るようにしましょう。イエス・キリストが自ら見せてくださった十字架の正義を守り、恵みの業を行いましょう。

 

 皆さん、皆さんに一言だけ申し上げます。 私たちがカトリック教会の信者として洗礼を受けただけでは足りないということです。イエス・キリストが自ら見せてくださった教えを私たちも熱心に従わなければ、ヨハネの黙示録に出て来るラオディキアの教会の信者たちにおっしゃった聖霊のみことばがひょっとして私たちにやってくるかもしれないということです。「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。(ヨハネの黙示録 3, 16)

 

2020年8月15日(聖母の被昇天 祭日)

 今日はマリア様の祝日なので特別にエクアドルのクエンカという地域とメキシコで1988年から1990年までパトゥリシア・タルボットという女性に現れたマリア様のメッセージを要約して簡単に申し上げます。

  彼女が伝えたマリア様のメッセージは次のようです。

1番目、毎日ロザリオの祈りを祈りなさい。

 2番目、毎日ミサに行きなさい。マリア様のお言葉によると、「私の子はミサの中に生きている、本当に。だから、彼をしばしば訪ねて行きなさい」。

 3番目、犠牲を捧げなさい。

 4番目、1週間に一回は断食をしなさい。特に、木曜日にするのが勧め。

 5番目、自分の家族と国の聖化のために「私の子イエスの御心に、そして私の無原罪の御宿りの私のみ心に捧げなさい。

 6番目、一番弱くて貧しい人々の顔を見なさい。そして私の子イエスの御顔も見なさい。

 7番目、お互いに愛し、赦し、自分に犯した他人の罪を忘れてしまえ。

 8番目、少なくとも1ヶ月に一回はゆるしの秘跡をしなさい。

 9番目、毎日ロザリオの祈りを祈りなさい。これは悪に対する我々の盾だよ。そしてこれは神の国に至る階段だよ。そしてこれは救いの錨だよ。

10番目、信仰生活の生ぬるさを捨てて、本当の悔い改めをしなさい。

 11番目、自分の生き様と人生の模範として福音を宣言しなさい。すべての罪と悪い習慣を捨てなさい。信仰と希望と愛の徳を日常生活の中に実践しなさい。十字架につけられておられる方を毎晩見なさい。十字架を手に持って跪いて良心の究明をしなさい。そして毎朝起きながらすべての人に信仰と希望と愛の徳を伝えるべきだということを思い出しなさい。

  最後に、状況が良くても悪くても関係なく、イエス・キリストが生きておられるということを宣言しなさい。

  以上です。しばらく黙想しましょう。

 

2020年8月9日(年間第19主日)

 今日の典礼のみことばのテーマは「神様はどこにいらっしゃるのか。」だと思います。第一朗読のみことばを思い出してください。神様は預言者エリヤにどのように現れましたか。非常に激しい風、地震、火が全部通り過ぎた後、静かにささやく声が聞こえたそうです。でしょ? このように静かな中に神様はいらっしゃいます。それはいつですか。まさに祈る時です。

 ところで、祈る形は人によって違います。

祈る時、頭の中が様々な思いで忙しく混乱している人が多いです。

そんな人々には神が来ません。 いや、来られません。 

 

 そして、聖堂に来ても祈りを一切しない人が多いです。

自分のすべき教会への奉仕である仕事だけをして、すぐに行ってしまう人たちには神はいらっしゃいません。 いらっしゃることができません。

聖堂ではミサをしているのですが、聖堂の他の場所で働いている人がどれだけ多いことでしょう。自分のすべきことが終わってから30分ほど聖櫃の前に座ってお祈りすることもせずにすぐに家に帰ってしまう人たちがどれだけ多いですか?

  祈らない人には恐れがたくさんあります。ですが、祈る人には恐れがありません。なぜかというと、神様が私を守ってくれておられるのを信仰で知ってるからです。

  今日の福音のみことばにありました。ペトロは「溺れて死んだらどうなるだろうか。」という恐怖に襲われました。怖かったのです。しかし、イエス様は「来なさい」とおっしゃいました。これは、つまり、「わたしだけ見て来なさい。わたしだけ見て来れば死なないよ。」という意味だと思います。

  皆さん、祈りに慣れてない人には恐怖が生じます。ですが、イエス様のように毎日祈る人はそんな恐怖など存在しません。イエス様が毎晩人里離れたところへいらっしゃったのは、つまり、ひとりでお祈りをしたという意味です。弟子たちの目にはただひとりで人里離れたところへ行かれたように見えたかもしれませんが、あの方は祈るためにそこに行かれたのです。

 もう一度申し上げます。祈らない人には神様がいらっしゃいません。祈らない人には恐れと恐怖の悪魔だけが生きているだけです。

  弟子たちが湖の上を歩いていらっしゃるイエス様を見て「幽霊だ」と言ったのも恐れと恐怖に包まれた人々の目には、そう見えたのです。

 

皆さんに申し上げた私の言葉は嘘ではありません。今日の第二朗読で使徒パウロもおっしゃったように、聖霊が証ししてくださるからです。

2020年8月3日(月)

【霊的聖体拝領の勧め】

 ヨハネ・パウロ2世は回勅『教会にいのちを与える聖体』で「ミサにあずかっても聖体拝領しないときは、霊的に拝領することができます」というイエスの聖テレジアの言葉を引用し、霊的聖体拝領を勧めています(34)。ミサの中止などによってやむを得ず聖体拝領ができない場合も、霊的聖体拝領が勧められます。霊的聖体拝領に決まった形式はありませんが、以下の聖アルフォンソ・リゴリの祈りがよく知られています。主日であれば、その日の聖書箇所をよく味わってから、この祈りを唱えてはどうでしょうか。

わたしのイエスよ、

最も祝福された秘跡のうちに

あなたがおられることを信じています。

わたしはあなたを何よりも愛し、

わたしの魂にお迎えしたいと望んでいます。

いまは秘跡によってあなたを受けることができませんから、

せめて霊的にわたしの心に来て下さい。

わたしはすでにあなたがわたしの心におられるようにあなたを抱きしめ、わたしのすべてをあなたと結びつけます。

わたしがあなたから離れることを

おゆるしにならないでください。アーメン。

 最近、分散ミサのために主日に聖体拝領ができないグループの信者たちに聖アルフォンソの霊的な聖体拝領の祈りを勧めます。 ですが、この祈りを捧げたとしても聖体を迎えたと言えませんので、できるだけ平日ミサに与り、聖体を拝領してほしいです。     -  主任司祭 -

2020年8月2日(年間第18主日) 

イエス様は洗礼者ヨハネが死んだことを聞くと、船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれたそうです。

 どんなに心が落ち着かなかったでしょうか。立場を変えて考えてみてください。 皆さんの親しい同僚が急に死んだとしたら、それも誰かによって殺されたとしたら皆さんの心はどうでしょうか?

 それで、イエス様は一人でいたかったのですが、人々はイエス様のその心も知らずに、イエス様のいるところまで訪ねてきました。気が利かないです。でしょ?

  しかし、わが慈しみ深いイエス様はその群衆を見て、深く憐れみ、またその中にいる病人をいやされたそうです。それに、夕方になると、群衆を解散させずに、たったパン5つと魚2匹で、全員を腹いっぱい食べさせました。こんな神様がどこにいらっしゃいますか。私たちはこんな方を神の子として仕えているのです。そのことを皆さんは分かっていますか?そんなイエス様に対する私たちの態度はまだ生ぬるいと思います。

  今日の第一朗読のみことばはこのような私たちの生ぬるい態度に対する悔い改めの声と思いますが、いかがでしょうか。価値もない世の中のものを捨てて、永遠の命の糧を求めなさいという神の声が聞こえませんか?

  そしてもう一つだけ申し上げますが、今日の第二朗読のみことばはこんなにまで私たちを愛してくださる神の子イエス・キリストがいらっしゃるのに、いったい何が怖いのですか?とおっしゃったと思います。コロナよりすべての人々をお裁きする神様をもっと恐れてください。だからといって、コロナ防止をしてはいけない、という意味ではありません。 コロナを怖がりすぎないでということです。 コロナよりも私たちが死んで受ける神の裁きをもっと怖がれということです。

 

  今日私が申し上げたいのは、神の子イエス·キリストが自分の心が寂しいにもかかわらず、そんなことは全くかまわず、いつも私たちを憐れに思うあの方の心を思ってほしいということです。