主日のミサが、基本月2回となり、他の日曜日は集会祭儀となりました。集会祭儀には佐藤神父様の教話を集会祭儀の司会者が読み上げます。


2023.11.19

    先週の福音に続き、今日のタラントンのたとえでも主の再臨に備える方法が示されます。5 タラントン を預かり 5 タラントンもうけた者も、2 タラントン預かり 2 タラントンもうけた者もどちらも主人に褒 められました。しかし、1 タラントン預かった者はただ隠しておくだけで何も増やすことなく主人に返 しました。この違いを今日の福音ははっきりさせています。

    神から与えられたものを使っていくこと 、 利用していくことがまず求められているのです。もし、5 タラントン預けられた人も 2 タラントン預け られた人も損害を出していたとしたらどうでしょうか。その場合 1 タラントンを地に埋めておいた人が 褒められるのでしょうか。そんなことはないでしょう。問題となるのは神から与えられた賜物をどう 使っていくかということであって、使っていかないならば何の役にも立たないのです。

    イエスご自身の生き方を見ると、その受難、十字架上の死というものがすべてを失っていく生き方に見 えます。それはまさに神の恵みをすべて奪い取られる瞬間に見えるからです。むしろ損害を出している ように見えるかもしれません。しかし、それでは終わらないのです。損害どころか、より大きな恵みが 与えられるということがわかると思います。神の恵みは永遠のいのちへと導いていくものだからです。

    パウロのテサロニケの教会への手紙の最後に「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を 慎んでいましょう」とあります。「身を慎んでいましょう」ということを 1 タラントン地に埋めておく ことと解釈してはいけません。何もせずにじっとしているということではないのです。どちらかと言え ば、常に用意ができているという意味のことばです。常に用意ができているということは、常に神の恵 みを生かそうとしている状態を言います。

    聖書の中で妻と夫というのは教会とキリストとの関係を表しているとカトリック 教会は考えます。箴言 で読まれたところはまさしくそうで、有能な妻である教会と、教会を心から信頼している夫であるキリ ストを示しています。ですから、この朗読個所を単に夫婦関係に当てはめてはいけないのです。ここは キリストの花嫁である教会の完成形を描いていると考えなければなりません。この教会の姿は神から与 えられた賜物を生かしていく姿であると言えます。「夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足する ことはない。」今日の福音のタラントンのたとえにつながっていきます。わたしたちにも与えられた賜 物があるはずです。神が与えてくださった賜物を、大切に保管していくことではなく、あるいはただ先 延ばしにするのではなく、生かしていくことを常に考えていきましょう。

 

2023.11.4

 聖書はだれのために書かれたものでしょうか。それは言うまでもなく、神を信じる人たちのために書か れたものです。福音書の成立を考えると、信者の必要性があって文字にして残したと思われます。イエ スの直接の弟子たちがいたころは、まだイエスの教えを正しく正確に伝えることができました。しかし、 直接の弟子がいなくなると、イエスの教えが少しずつずれていったのではないかと考えられます。そこ で、記憶が定かなうちに記録に残すようになりました。新約聖書で一番古い文書は、パウロのテサロニ ケの教会への手紙です。今日読まれた手紙です。紀元後 46 年ころと言われています。イエスがなくな ってから 16 年後くらいです。そういう手紙も参考にしながら、まずマルコによる福音書が書かれまし た。紀元 60 年代と言われています。

 

 今日のマタイによる福音書は紀元 70 年代と言われてています。マルコの文書をもとに付け加えたり、修 正されたりして書かれました。今日の部分もマルコではわずか 3 節のみですが、マタイでは 4 倍の 12 節 になっています。特に、最後の 3 節はイエスの直接の言葉ではなく、教会が付け加えたものと考えられ ます。「あなたがたの教師はキリストただ一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕 える者になりなさい。」教会が伝えてきたことで、最も大事なことはここではないかと思います。「仕 える者になりなさい。」まさしくイエスの姿そのものです。イエスの姿は人々の重荷をともに負うこと です。「言うだけで実行しない」「指一本貸そうともしない」のでは、キリストにならう生き方とは言 えません。

 

 今日の個所でわたしたちが陥りがちなのは、聖職者に対する非難です。あるいはもっと広げて政治権力 に就いている人々に対する批判の手段として利用する読み方です。確かにそういう人たちの中には「言 うだけで実行しない」「指一本貸そうともしない」という者がいるかもしれません。福音書はすべての 信者のために編集され残されたものです。ということは信者すべてに向かって語られているのです。わ たしたち信者の中にも、ファリサイ派や律法学者のようになる危険があるということです。わたし自身 彼らのような面がないとは言い切れないところもあります。いいことを言いたいとか、よく見られたい という気持ちもあります。そういう点が、キリストを師と仰いで生きていくことを妨げているところな のではないかと思います。

 

 第 2 バチカン公会議で聖職者中心主義はあらためられました。司教と司祭団が教会の牧者であることと 並んで、神の民のメンバーである信徒の使徒職、共通祭司職、預言職についても示されています。なん でも司祭がリーダーとして活動したり、ミサをささげたり、神のことばを伝えるのではなくなったとい うことです。教会の中で、司祭が先生、父、教師であり、信徒が生徒であるという構図はもう捨て去ら れています。すべての構成員によって教会は強められるのです。また、必ずしも司祭の知識が信徒の 方々より勝っているわけではありません。信徒の中にも聖書の翻訳をしたりする人もいれば、神の愛に 生きて奉仕活動をする人もいます。「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」「あなた がたの教師はキリスト一人だけである。」第 2 バチカン公会議後、教会は何を中心とするのかというと キリストを中心とするのです。信者は皆兄弟です。誰が先生でだれが生徒かということはありません。 お互いに神の福音を伝えるように努めましょう。それはキリストの生き方をまねることであり、キリストの生き方を実行していくことにつながります。

 

2023.10.15

 

 今日の聖書のたとえは天の国のたとえです。ある王子が結婚披露宴を催すことが語られています。この 婚宴とは、神と人とが結ばれる場を示しています。そこに招かれることは何と素晴らしいことなのかと いうことに気づくことを求められています。

 教会は神によって召された人々が集う共同体です。神の呼 びかけに気づき、自分が神に召されていることに同意して集っているのです。旧約聖書におけるイスラ エルの召命、神の選びが初めにあって、最後に新約聖書の中でイエス・キリストによる契約があり、教 会という共同体ができたのです。わたしたち信者一人ひとりが、神に召されて聖なる者となった人たち の集いの中にいるかどうかが大切なことなのです。

 ところで、わたしたちの信仰や救い、キリスト者としての使命は個人的なものではありません。あるい は道徳的に守るだけのものでもありません。教会という共同体の中で救いを信じ、そのためにできるこ とをみんなで行っていくのです。自分は神に言われてきたことはすべて守ってきましたと言うだけでは 足りないのです。それだけでは個人的なこと、あるいは道徳的なことで終わっています。もう一歩進ん で共同体的なことにまで踏み込むことが救われるために必要なのです。神は「善人も悪人も皆集めて」 「婚宴は客でいっぱいにな」ることを望んでおられます。神に祈り道徳的に素晴らしい人であっても、 自分の周りにいる人々と共に歩まないなら、神の招きを断っていることになるのです。

 さて、今日の福音は 11 節から 14 節が省略できるようになっています。「婚礼の礼服を着ていない者が 一人いた」という言葉が、悪人という言葉にかけられて「悪人の一人」と見られる危険性があるからだ と思います。つまり、やはり悪人は裁かれるのだ、あるいは裁かれるべきだと短絡的に考える可能性が あるから省略してもよいことにしたのではないかと思うのです。勝手に連れて来られたのに礼服を着て いないと言いがかりをつけられて、手足を縛られて暗闇に放り出されるとはなんと恐ろしいことかと考 えてしまいます。そうすると、その前の善人も悪人も集めて、婚宴をいっぱいにしたのは何なのかと思 ってしまいます。

 11 節からはこの急いで集めてきた人々のことではなく、初めに正式に招待された人々の中の一人と考え られます。最初の呼びかけに何かと理由をつけてほとんどの人が来ませんでした。神の呼びかけに対し て、それ以上に優先する理由をもとに婚宴に行かなかったのです。その中で断る口実を見つけることが できなかったので、仕方なく婚宴に出かけて来た人であると考えられます。礼服を着ていなかったとい うのは嫌々婚宴に来た人を表していると言えるでしょう。呼ばれて来てみたが婚宴の意味を理解してい なかったか、あるいは婚宴を否定していたので礼服を着ていなかったのでしょう。旧約聖書におけるイ スラエルの召命、神の選びがあったのに、イエスの呼びかけによる教会という共同体を否定している者 を表していると言えます。

 神の掟を守るだけではなく、神の愛を受けて人を愛することができるかということが、礼服を着ている かどうかということに表されているのです。ここ 3 週間、福音は「祭司長や民の長老たち」に語られて います。イエスの福音を聞いても信ぜず、自分たちの信じていることにかたくなになっている人、つま り祭司長や民の長老たちのことをイエスは言っているのです。わたしたちはそのようなことはありませ ん。天の国で行われている典礼をわたしたちもこの地上の教会で行っています。天使と共に声を合わせ て信仰を宣言することで礼服を着て、地上に神の国を実現していくことができるよう願いながら、祈りを続けましょう。

2023.9.17

 

   マタイ福音書の 18 章は、教会共同体の生活や教会内の対人関係を教える個所となっています。子ど もを受け入れること(1-5 節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9 節) 、迷い出た羊のたとえ(10-14 節)、そして罪を犯した兄弟を見失わないようにすること(15-20 節)です。

    一貫して問われている のは、共同体の中にいる弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所はそ の結びの部分で、罪を犯した兄弟に対するわたしたちのゆるす態度について述べられています。

    今日の福音は兄弟からの罪を何回ゆるすべきかというイエスとペトロの会話で始まっています。ペト ロは 7 回もゆるせば十分ではないかと考えているようですが、イエスは 7 の 70 倍までもゆるしなさ いと言っています。事実上無制限にゆるしなさいということです。ペトロはゆるしについて、償われ て当然の損害に目をつぶり我慢することと考えています。罪があっても償ってくれるならゆるしまし ょうと言っているのです。しかし、我慢にも限界があります。だからペトロは 7 回までなら我慢しま すという考えなのです。

    イエスは違います。ゆるしは犠牲なのではないということです。ゆるすこと によって失われるものは何もなく、むしろ良いものを得ることができるのだと考えています。良いこ とが得られるなら限度はないはずです。何度でもゆるしていいものが得られるのです。イエスは、罪 によって被った実際の物質的な被害よりも、兄弟の交わりが損なわれる方が大きな損害だと考えてい るのです。兄弟の交わりを回復させることがゆるしであり、そのゆるしは無限に繰り返されて当然な のです。

    そのあとのたとえを見てみましょう。「ある王」とは神のことです。「家来」はわたしたちのことで す。「家来の仲間」はわたしたちの隣人のことです。神は莫大な罪を負ったわたしたちをゆるしてく ださるのです。1 万タラントンとは普通の労働者の十数万年分の賃金に当たりますから、途方もない 金額です。ここに神のゆるしのはかりしれない大きさが示されています。どうすることもできず行き 詰ってしまってしまい、生きることができなくなってしまった人をも神は生かそうしてくださるので す。100 デナリオンとは普通の労働者の数カ月分の賃金に当たりますから、人と人との間の貸し借り においては現実的な数字です。もしわたしたちが小さな罪を負った隣人をゆるさないのなら、神はわ たしたちを罪の償いが終わるまでゆるさないのです。

    わたしたちの身の回りにある小さな罪を犯した 兄弟をゆるしましょう。 主の祈りを思い出してください。「わたしたちの罪をおゆるし下さい。わたしたちも人をゆるしま す。」わたしたちも人をゆるすなら、神はわたしたちの罪をもゆるしてくれるのです。罪をゆるすと いうことはただ単にわたしたちがゆるすことではなく、その人に対する深い共感から生まれてくるも のです。わたしたちもその人のために何とかして生きて行く道を一緒に見いだしていく必要があるの です。まず神はわたしたちの罪をゆるすのです。神がゆるすものをわたしたちがゆるさないなら、そ の裁きはすべて自分に返って来るのです。この世で神の国を実現するために互いにゆるし合い、神のゆるしを得る恵みを願ってともに祈り求めてまいりましょう。

2023.9.3

 

    なぜペトロはイエスに「サタン、引き下がれ」などと言われたのでしょうか。先週の福音を思い出してみ てください。ペトロはイエスから「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と祝福の言葉をいただいたので す。それはペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰をはっきりと答えたからです。今日の 福音ではイエスご自身が苦しめられ、殺され、三日目に復活するということをイエスは弟子たちに打ち明 けられました。ペトロの耳には「苦しめられ」と「殺され」という言葉しか聞こえていなかったのかもし れません。だからすぐに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と答えたの でしょう。人間の手にかかって死んでしまうなんてあるわけがないと思ったのでしょう。

     ペトロの信仰告 白と今日のペトロの言葉を少し直して並べてみましょう。「あなたはメシア、生ける神の子です。多くの 苦しみを受けて殺されることなどあってはなりません。」となります。 マタイ 4 章にある悪魔の誘惑の言葉を見てみましょう。「神の子なら、これらの石がパンになるように命 じたらどうだ。」(マタイ 4・3)「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(マタイ 4・6)実はペトロも 同じようなことを言っているのです。「神の子なら、殺されないようにしたらどうだ」と。だからイエス は荒れ野で悪魔に「退け、サタン」(マタイ 4・10)と言ったように、ペトロに「サタン、引き下がれ」 と言ったのです。

    もし殺されないのであれば神のご計画である「三日目に復活する」ことを邪魔すること になるので「神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのです。人を神から引き離す力で ある「サタン」という表現によってペトロに神のご計画を理解させようとしたのです。わたしたちも「神 のことを思わず、人間のことを思ってい」ないでしょうか。

 

    さて、イエスは弟子たちをご自分の受難と復活の道に従うよう招かれます。 一つ目は「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということです。自らを犠牲に して他者を救う道を選びなさいと言われています。苦しみを耐えてそれを乗り越えることができたときの 喜びは大きいものです。

    二つ目は「この世の命」を失ったとしても「永遠の命」を得るためにイエスに従って歩みなさいというこ とです。「この世の命」は大切です。しかし「この世の命」は限りあるものです。それよりももっと大切 なものとして「永遠の命」があります。イエスに従わないのであれば「永遠の命」を得ることはできない のです。 マタイ 4 章の悪魔の誘惑の言葉で 3 つ目の最後の言葉があります。「悪魔はイエスを非常に高い山に連れ て行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみん な与えよう。』」(マタイ 4・8-9)直後にイエスは「退け、サタン」(マタイ 4・10)と言いました。 「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得」もないのです。「この世の命」を失った 上に「永遠の命」をも失うことになるのです。目先のものに振り回されず、神に対する信頼と人に対する 愛を貫いて行きましょう。

 

<すべてのいのちを守るための月間(9 月 1 日~10 月 4 日)>

 

     最後に、2019 年に教皇フランシスコが来日して呼びかけられた「すべてのいのちを守るため」というメッ セージの実践の一環として、日本のカトリック教会は、毎年 9 月 1 日の「被造物を大切にする世界祈願 日」から、10 月 4 日のアッシジの聖フランシスコの記念日までを「すべてのいのちを守るための月間」と して定め、2020 年からこれを実施しています。日本のカトリック教会ではそのための祈りが用意されてい ます。「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」というものです。、この祈りをこの期間、日々 ささげてまいりましょう。

    それでは皆さんご一緒にこの祈りを唱えましょう。

 

『すべてのいのちを守るための祈り』

    宇宙万物の造り主である神よ、 あなたはお造りになったすべてのものを ご自分の優しさで包んでくださいます。 わたしたちが傷つけてしまった地球と、 この世界で見捨てられ、 忘れ去られた人々の叫びに気づくことができるよう、 一人ひとりの心を照らしてください。 無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、 ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、 わたしたちの役割を示してください。 すべてのいのちを守るため、 よりよい未来をひらくために、 聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、 あなたの愛の道具として遣わしてください。 すべての被造物とともに あなたを賛美することができますように。 わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。 (2020 年 5 月 8 日 日本カトリック司教協議会認可

2023.8.20

 

    今日の朗読のテーマはすべての人が救いにあずかることができるということです。

   イザヤは「主のもとに集って来た異邦人」が神に受け入れられる、と言っています。 パウロは異邦人がキリストを信じて教会の一員になるよう願っています。 イエスは異教徒であるカナンの女を、神に愛され神のいつくしみを受けるのにふさわしい者として弟子 たちに示されました。

    ところで旧約聖書、特に出エジプト記の中で『イスラエルの人々をエジプトから脱出させカナンの土地 に導き入れる』とモーセは神と契約を結びました。そしてカナンの土地の境に到着するまで荒れ野での 40 年間の生活をしました。カナンの土地に入った時にはそこに先住民がいました。イスラエルの人々の 一部はカナンに住み、定住生活を始めると先住民の神々の影響を受けるようになり、神から離れるよう になってしまいました。多くの人々が神から離れてしまったので、たびたび預言者たちはイスラエルの 民に自分たちの神に立ち返るように繰り返し警告を与えていました。カナンの地は異邦人の地であり、 この地に生まれたカナンの女が先住民なのかイスラエルの民なのかはわかりません。しかし、異邦人の 地に住む女性であるにもかかわらずこの女性は、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。「ダビ デの子」というのはイスラエルの王を表す言葉です。つまりメシアであり油注がれた者という意味です。 当時の人々がイエスをそう言っていたということを知っていただけなのか、あるいはイスラエルの神を 信頼しているからなのか分かりません。イエスもそれに対して何もお答えになりませんでした。 弟子たちが「この女を追い払ってください」とイエスに願います。イエスは「わたしは、イスラエルの 家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えました。そこでこの女性とイエスとのやり取 りが交わされます。

  女性の願いに対してイエスは「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」 と答えます。ここでは『彼女を救いたいけれども、今はイスラエル人の救い』という使命のために自分 を抑えているイエスをマタイは描きたかったのではないでしょうか。まずイスラエルの民が救われるべ きだという思いがイエスにあるのは明らかです。すべての人が救われるのは、イエスが死んで復活した 後だというマタイの考えが反映されています。マタイが記述した時にはすでにイエスの復活の後ですか ら、福音書もすべての人のために記述してもよかったと思います。しかし、マタイの共同体はユダヤ人 の共同体だったので、まずイスラエル人が救われるという考えを述べた後で、異邦人の救いを述べる形 にしたのだと思います。逆にそうしたことで、この女性の信仰が浮き彫りになってきます。「主よ、ご もっともです。しかし」と言ってこの女性は反論します。その反論とは、子犬と称されている異邦人で ある自分もあなたの救いにあずかりたいということです。子供であるイスラエル人の救いは当然ですが、 子犬である異邦人もその救いにあずかりたいのです。 そこでイエスはこの女性に呼びかけて答えます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通り になるように。」彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼に対して、イエスの心が動かされたの です。イエスの弟子たちや最初のキリスト者はみなユダヤ人でした。ユダヤ人でない人の信仰がユダヤ 人を動かしたと言ってもいいでしょう。弟子たちも、信仰を持った異邦人との出会いによって、逆にす べての人に救いが及ぶのだという考えに変わっていったのではないでしょうか。自分たちがどのように 宣教していくかにとらわれるのではなく、そこに現実にいる人との出会いが大切なのです。わたしたち も自分の考えにとらわれることなく現実と向き合いましょう。神のご計画はわたしたちの思いを超えて変えられていくのかもしれません。

2023.7.3

 

  今日の福音の出だしは、一見したところわたしたちにとって違和感があると感じるところではない かと思います。モーセの十戒の中で『父母を敬え』という教えがありますが、いきなりそれに反す るようなことを言っているように思えるからです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしに ふさわしくない。」これは十戒の『父母を敬え』ということに反しているのではなく、どんな間柄 でも対立は避けられないことであるということ。しかし、それでもわたしたちがイエスの福音にと どまることができるかどうかということが問われているのです。 家族を大切にしなければならないというのは当然のことです。家族を離れてイエスに従うというの は、親離れや子離れと似ていると思います。親元を離れて自立して生きていくということは人生の 上で必要なことです。いつまでも親にかばってもらって守られてずっと生きていくことはできませ ん。いつか親から離れなければならなくなるのです。親から離れて、あらためて親の愛を感じると きに新しい違った家族の関係が生まれてきます。自分の生き方を確立して、もっと大切なものを見 つけたときに、本当に家族を愛することができるようになるのです。 「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」父や母を愛する者、息子や娘を愛する者、あるい は自分の十字架を担ってイエスに従わない者は、この世のいい生活、楽な生活だけを求めている人 と言えるでしょう。イエスは目先の利益にとらわれずイエスに従う人になりなさいと言っています。 今日の福音のあとの方の段落を読んだときに、自分にとって本当に受け入れることができるかどう かを考えてみましょう。具体的には最後の 42 節ができるかどうかを考えてみるといいと思います。 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、 必ずその報いを受ける。」見返りを求めない愛、無償の奉仕、その中にイエスの弟子としての姿勢 があります。利益を無視して人を受け入れるということは簡単なことではありません。どうしても 自分の利益になるかどうかを考えて、その人を受け入れていいかどうかを判断してしまいます。こ の 42 節のことばのように行動できるかどうかがイエスの弟子として問われていることなのです。 マタイによる福音の最後の方に最後の審判の場面の中で同じようなことが描かれています。25 章で す。王は自分の右側の者に言う、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなた がたのために用意されている国を受けなさい。あなたがたは、わたしが飢えていた時に食べさせ、 かわいていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、 ろうやにいたときにたずねてくれたからである。」「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人 にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」今日読まれた聖書の言葉をわたしたちが受け入れることができるでしょうか。

2023.6.25

 

 今日の福音では「人々を恐れてはならない」「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れる な」と言っています。恐れるべきは「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」なのだと言っています。 第一朗読でエレミヤは当時の人々から受け入れられなかったことが描かれています。エレミヤに対して も神は恐れることなく人々に神の預言を伝えよと言われます。それに励まされてエレミヤは神のことば を伝えていきます。 12 人の使徒たちにもイエスは恐れるなと告げています。「人々を恐れてはならない。」「体は殺しても、 魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」「だから、恐れるな。」イエスの弟子であるという理由 だけで、迫害されるのです。確かに福音書が記された当時は迫害されていました。ここで、イエスは必 ず共にいて力を貸してくださる方であると信じることが大切なことだと言っているわけです。

現代のわたしたちには迫害ということはあまりないでしょうが、イエスをあかしする「恐れ」というも のはあるでしょう。自分の信仰が周りの人々に受け入れられないのではないかという思いはあるでしょ う。

 

 ペトロは 3 回イエスを知らないと人々の前で言いました。しかしイエスからはペトロに対してあなたを知らないとは言いませんでした。今日の福音では、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わ たしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と言っていたのにです。イエスはペトロが深く後悔して涙を流していたことをよく知っていました。だからこそイエスはペトロに「あなたを知らない」というのではなく「わたしを愛しているか」と言われたのです。同じようにわたしたちに対してもイエスは すべてご存知です。少しでもわたしたちがイエスを裏切ることがあることはご存知です。しかし、イエ スがペトロに言われたように、いつでも「わたしを愛しているか」と問いかけておられます。「わたし を愛しているか」という問いかけは、神をどう愛したらいいかをわたしたちに問いかけるものです。

 

 今日福音の中で問いかけている 12 人の使徒たちに対する愛はわたしたちに対する愛でもあるのです。病 気や失業、犯罪、暴力、裏切りなどは日常的にあるもので、わたしたちに「恐れ」というものを引き起 こします。もちろん自分の身を守るために「恐れ」というものは必要であると言えます。問題はその 「恐れ」のために日常生活が振り回されて行くことです。本来すべきことができなくなることが問題な のです。イエスが「恐れるな」と言っているのは神に信頼して歩みなさいと言っているのです。本当に なすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何かをよく考えて神に信頼せよ、と言っているのです。 勇気をもってイエスに信頼して歩むことができますように。

 

2023.6.4 

  

1334年に教皇ヨハネ22世が全教会で三位一体を祝うことを決定してから、主日のミサの中で行われるようになりました。もともと行われていなかったのはミサのたびごとに三位一体の神である父と子と聖霊を記念し賛美しているからです。あえて別に祝日を作る必要性がなかったとも言えます。とはいえ、救いの歴史の中で父である神から派遣されたイエスの復活と聖霊の派遣によって完成されたあとに、特別に三位一体の神をたたえることはふさわしいといえるでしょう。

 

今日の福音はとても短いところです。ここはニコデモとの対話ですから31節から21節までの長い対話です。3回の問答を通してニコデモはイエスがどのようなお方であるかを理解していきます。これはわたしたちにも向けられたものでもあります。16節は神の愛を述べているところです。ここに書かれているとおり、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に世に与えられました。まずここに神の愛がわたしたちのために注がれているのだということが分かります。神は自分の力を誇示したいとか、宇宙を支配したいとか、自分の思い通りにしたいというような人間的な気持ちはありません。御自分の独り子をわたしたちに与えられたほどに、世を愛されたのです。「世」というのは、この世界です。この世界は今でも人間が自分のことだけを考えて、あるいは自分の属している仲間のことだけを考えている罪の世です。そのときには自分さえよければいいという世界になっています。その世の中でイエスは、病気で苦しんでいる人や貧しい人に手を差し伸べて、自分のときをそういう人々のために使いました。逆に権力を持った人々や律法学者などには自分のことばかり考えることを非難していました。そういう人々に対して神の力を発揮することではなく、十字架の死をあえて受け入れて死んでいきました。その姿は惨めなものでしたが、復活という出来事によって栄光を受けました。

 

17節では「世を裁くためではなく、世が救われるためである」と言っています。ところが18節では、世にいる「信じる者は裁かれず、信じない者はすでに裁かれている」と言っています。御子は救うために来たが、信じない者は裁かれていると言うのです。この裁きというのは神やイエスが裁くものではありません。自分自身が自分を裁くのです。自分自身で自分を罪に定めているのです。素晴らしく美しい有名な絵があったとします。この素晴らしさを知っている人はもちろん感動します。始めて見る人でも素晴らしいものであれば感動するでしょう。もし感動しないで大したことない絵だと思う人がいたらどうでしょう。残念に思いますね。そういう人とは一緒にこの感動を分かち合いたいと思っていても分かち合えません。自分で自分自身を罪に定めるというのはこういうことに似ているかもしれません。

 

 

イエスのすばらしさや神の愛を知っているわたしたちは、イエスと同じように生きていきたいと思っています。イエスを見て聞いて知っても、この人は偽善者だとか十字架につけられるのに抵抗しないなんておかしいという人は、イエスと同じようには生きていかない人でしょう。残念ながらその人は良い生き方を選ばないということで罪に定められている、あるいは自分で裁いているとすら言えるのではないでしょうか。しかし、イエスはそういう人に対しても救われようとされていました。すでに裁かれている人をもゆるそうとされました。それをわたしたちにも求めているのだと思います。イエスの生き方は、自分自身を人々に与えていく、あるいは寄り添っていくという生き方でした。それは神がわたしたちに独り子をお与えになるほど世を愛されたことに基づくものなのです。